Yoichiro Yamauchi
Official Web Site
Drummer 山内陽一朗
公式ウェブサイト
生い立ち
1985 9月16日
北海道札幌市で山内家の長男として誕生。
父は消防士、母は専業主婦で小学校に入ってからは銀行員。
音楽一家ではなかったが2歳上の姉がピアノを習っていたのもあり自分の意思とは関係なく気づけば4歳くらいからピアノを習っていた。
性格はかなり大人しめで、競争や戦いごっこ、ボール遊びなどの男の子らしい遊びは積極的に避けていた。
今で言う陰キャ寄り。
幼稚園の頃好きだったものは電車。その頃の将来の夢は電車の運転手。
年長になった時に札幌の中心街から郊外の田舎へ移り住んだ。
とても自然豊で山に囲まれた環境が影響してか山や自然に興味を持つ。
小学生時代、これはきっかけが思い出せないのだが、
北海道の美しき山々に惹かれ登山ガイドや地図帳を愛読していた。
小学2年の頃には北海道内の主要な山の高さや形はほとんどインプットされると言う無駄な知識と特技を取得。
時同じくして1993年、忘れもしない1月15日に起きた釧路沖地震。
札幌で体験した震度3の地震、今思えば大した揺れではなかったが
当時初めての地震に恐怖し号泣。
この恐怖体験がきっかけで地震や火山に関する本や新聞記事を読み漁るのが日課となっていた。
ちなみに大人になった今でも毎日のように地震情報チェックは欠かさない。
父は当時バレーボールチームに所属しており、スポーツマンシップにあふれていたがその血は全く受け継がれず自分は運動音痴。
体育の授業は憂鬱だった。
かといって勉強もできるわけでもなく、ただただ地味な小学生時代。
テレビゲームや漫画はほんのかじる程度。
客観的に見ると変わった少年だったのかもしれない。
4歳から言われるがままやっていたピアノは結局小学6年になるまで習い続けてはいたが、やはり興味を持てなかったため全く弾けズ、、、
当時の先生や親には申し訳ない気持ちである。
ただ唯一習ってて良かったことは`絶対音感`が身についたこと。
ぼーっとした少年時代を過ごしていた小学4年生の秋、
2歳上の姉がB`zのファンになり、それに影響され山内少年も一緒になってB`zの音楽に魅了された。
そんなある日、おそらく人生のターニングポイントとなる日が訪れた。
ライブというもの足を運んだこともなければ映像でも見たことがなかった当時、姉が友人から借りてきたB`zの1995年のライブビデオ`BUZZ The Movie`。
それを観た山内少年は衝撃を受けた。
その当時ツアーのサポートをしていたアメリカのドラマー (デニーフォンハイザー氏)に釘付けになり、、
これがドラムに興味を持った瞬間であった。
郊外に住んでいたため偶に中心地に行く時に楽器屋に連れて行ってもらい、YAMAHA,Pearl ,TAMAのカタログを持ち帰り家で眺めながら、どんなセットにしようかなー、、なんて夢を抱く日々。
ドラムに対する思いがますます燃えたぎる小学5年のお正月、
お年玉をもらい、二つ欲しいものがあり悩んでいた。
それは当時流行していた任天堂64、
もう一つはドラムセット風のゴム製の練習台(19800円くらい)
でも気持ちはすぐに固まった。
惜しくも無くなってしまった狸小路3丁目のキクヤ楽器で目的の練習台を購入。
これがドラムとの日々の始まりだった。
毎日学校から帰っては遊ぶように好きな曲をかけながら本人になりきって叩く日々。
家族にとっては相当迷惑だとは思うが。。
中学生になった山内少年は自らの意思でドラムを習いたい、と母に申し出た。そして今は無き中島公園のYAMAHA札幌ビルに通い始める。
4年間グループレッスンを受け、2年ほどでテキストが終わり
そこからは当時の先生の趣味なのかTOTO,ブレッカーブラザーズなど当時は誰の何の曲なのか分からずに言われるがまま曲を耳コピして練習して実演するというレッスンをした。それまで聴いていたjーpopとは一味違う当時は謎な音楽に触れることとなる。
中学2年の時同じクラスの仲間でバンドをやるようになる。バンド名は『鮭ロック』。(パクリ)
そのタイミングで親にねだって電子ドラムを買ってもらいドラムへの情熱が加速する。
週末は自宅に集まりセッションをすると言う日々が続いた。
勉強もろくにせずバンドや音楽のことばかり考える日々。
ギリギリで公立の高校に入る。
高校生になり仲の良かった中有学時代の友人達や『鮭ロック』のメンバーはそれぞれ違う高校に行くことになり会う回数も少なくなったが、
携帯電話を持っていない身分で家電で連絡を取り合い、
タイミングが合えば山内家の僕の部屋で集まっては近所迷惑御免でバンド練習。これが生き甲斐であった。
高校2年の時、僕の噂を聞きつけた高校の友人にバンドに誘われた。
数回すタジオに入りそのバンドでライブに出る事が決定してしまったのだ。
この頃も性格は大人しく人見知りで人前で何かを披露するなんてのが一番嫌いだったこの頃。
むしろライブはしたくはなかった。
あーやばいぞ。緊張もピーク。
2002年の5月頃、場所はこれも今はなき札幌市中央区にあった
`遊音`というライブハウス 。
編成はギターボーカルに、ベー巣、ドラムの3ピース。
ハイスタ、ルナシーなどのごちゃ混ぜコピーバンドだった。
いざ本番。
客は8割が何故かヤンキー。
壁に寄りかかり、うんこ座りをしてタバコを吸う者
睨みつける者、
その中に何故か見守りに来る親父と姉、、w
客席カオス、、
インキャで内気な自分、心の中で早く帰りたいと叫んでいた。
4バンドほどの対バンイベントの3番目くらいだった記憶。
3~40分ほどのステージ。
無我夢中、、
死ぬほど緊張し終了、、w
終演後、放心状態だった自分に客席でうんこ座りしていたヤンキーの一人が、
『ドラムめちゃカッコよかったっすよ』と声をかけてくれた。
当時から髭をはやしていたからか、年上だと思われ敬語。
ただヤンキーが言うと妙に本音な気がして、ちょっぴり嬉しかった。
何だろうこの謎の快感。。
自分は今で言うところの`自己肯定感`がとても低い人間で、
何をやっても投げやり、どうせ俺なんて精神が拭えなかった学生時代。
頭は悪く勉強も運動もダメダメで全くモテずw
小学校から高校に至るまで右肩下がりの人生。
唯一ドラムを演奏することが自分で自分を認められる瞬間。
初ライブで人から褒められる。初めての経験。
ステージで演奏することの快感を感じた瞬間だった、、
2001年当時はミクスチャーロックやパンクバンド、オルタナ系のバンドが全盛期
当時コピーしていたバンドといえば レッチリ,rage against the machine,Korn, linpbizkit,offspring,system of a down,oasis,ハイスタ,BRAHMAN,オフスプリング、グリーンデイなど
同時に僕自身はJAZZ FUSION系の音楽にとても興味を意抱いていた。
きっかけはRuss millerと言うLAのスタジオドラマーのクリニックを見たことだった。今まで見たことのなかったテクニックやグルーブ感に衝撃を受けた。
高2からの2年間jazzdrumを北海道の重鎮ドラマーの大山淳氏に師事。
いつかジャズやフュージョンをバンドでやってみたいと心に抱きながら色々なCDを買い漁っては聴きまくる日々。
高校2年の終わり頃『鮭ロック』としての初めてのライブをすることとなるのだが、この日に新たな出会いがあった。
場所はここも今は無きライブハウス`クラップスホール`、
鮭ロックのべーシストが当時ジャコパストリアスやビクターウッデンなどじJAZZ FUSION系のベージストに興味を持っていたため楽屋でウッテンやジャコの話をしていると、対バン相手のドラマーが『俺もそのベーシスト好きなやつ知ってるよ!』と話しかけてきた。彼は同い年で既にフュージョンのバンドを組んでいた。
しばらくするとそのベーシストが楽屋に来て、『ウッデン好きなやつ誰!?』と興奮気味に入ってきた。
あれよあれよと仲良くなり、今度セッションしようぜ、と言うことになり
一緒に芸術の森のスタジオにでセッションすることとなった。
この時`うちの学校にすげーギタリストいるから連れていく`と彼らが紹介してくれた。彼らは双子でなんと両人ともバリバリに弾けるギタリスト。それでいて凄いテクニックを持っているベーシストとドラマー。彼らとのセッションはとても刺激的だった。
同い年でjazzやFUSIONを弾ける仲間に初めて出会い唖然とする自分。
間違いなくこの時の出会いが上京しようか悩んでいた自分の背中を大きく押した出来事だったと思う。
高2くらいからスタジオミュージシャンやハイブリッドなテクニックを持ったドラマーに憧れを抱いていた、特にvinnie colaiuta,steve gadd ,dennis chambers ,Tony williams,buddy rich,山木秀夫、青山純、村上ポンタ秀一など、彼らが出ているDVD、VHSは毎日見ていた。
彼らに共通するjazzと言うジャンルがキーワードになってる気がして、jazzを知ることで何かつかめるのではないか、と言う漠然とした考えで洗足学園音楽大学jazz科の入学を決意。
そして2004年高校卒業と共に上京。
洗足学園音楽大学jazz科に入学。ドラムを大坂昌彦氏に師事。
在学中は様々なバンドで活動をしながらセッション、
そこから色々な出会いと運命と試練が待っていた、、、